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北海道の歴史

蝦夷ヶ島

日本列島の最北端,本州と津軽海峡をへだててエイが泳いでいるような形の島,
面積8万3411q(含北方領土)の北海道は,もと蝦夷地(えぞち)とよばれた。
もっと古く 「日本書紀」阿倍比羅夫(あペのひらふ)の遠征に越渡島(こしのわたりしま)
の名で登場するところと考える人もおり,平安末に蝦夷ヶ千島・蝦夷ヶ島ともよばれた。
本州とは気候や動植物の分布も違っている。津軽海峡がブラキストン線とよばれるゆえんである。
このような異質性に色濃くつきまとわれるのが北海道である。

鎌倉時代に和人が移住してきたとき,北海道はアイヌ・モシリ(アイヌの島)だった。
和人が移住し始めてからは,和人のアイヌ支配過程をぬきにして,北海道の歴史を語ることはできない。
また,外国と隣接する辺境であったため,江戸時代,しばしば外国人とトラブルを起こし,
兵火を交じえた歴史をもつ。
このような点でも北海道には特異な歩みがあったといえよう。

原始

いつから北海道に人間が住むようになったのだろうか。
北海道が大陸と陸続きだった頃,おそらくシベリアからマンモス象を追って渡来したのであろう。
旧石器時代の遺物は,棒岸(たるきし)・白滝(しらたき)に続いて全道各地で発見され,
最も古い遺跡は数十万年前にさかのぼるといわれている。
北海道が島になったのほ1万年ほど前と推定されている。

これにつづく縄文文化は広く全道に分布しているが,道南と道東の2系統がみられる。
竪穴住居跡群は道東に特に多く残され,縄文後期のストンサークルは,
余市(よいち)・小棒(あたる)・音江(あとえ)などに代表される。
本州で縄文文化は2000年前に弥生文化に移行し,農耕時代に入って金属器が使用されたが,
北海道は続縄文文化時代とよばれ,金属器の移入は多少みられたが,
米作を主とする農耕段階には進まなかった。
これが以後の北海道の歴史を本州と大きく異なるものにしていった要因の一つと思われる。
続縄文期の終り頃,その文化は一時奥羽(おうう)地方まで波及したとみられる。
その後,本州の土師器の影響をうけた擦文(さつもん)文化がひろがるが,
ほぼ同時期に北方からオホーツク文化人が渡来し,網走のモヨロ貝塚をはじめ道北に独特の文化を展開した。

最近の研究では,オホーツク文化は道北・道東各地,さらには日本海沿岸後志地方にまで波及した
可能性があり,また礼文島では,オホーツク文化に先行するスズヤ文化の遺跡も発掘されている。
そして鎌倉中・後期,オホーツク文化は突然姿を消し,擦文文化もまたかわって
独自のアイヌ文化が全道的に形成された。

中   世>

鎌倉時代,源義経の渡島(ととう)伝説はさておき,奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされたとき,
その残党多数が蝦夷島へ逃げ込んだことは事実であろう。
そして東夷のかためと自任する津軽の豪族安東氏が,北条氏の代官として十三湊(とさみなと)を拠点に
蝦夷を管領していた。安東氏は前九年の役で滅んだ安倍貞任(あべのさだとう)の子孫と伝えられ,
安東氏の勢力はしだいに渡島(おしま)半島にも及んでいった。

『吾妻鏡』(あづまかがみ)の1216(建保4)年・1235(文暦2)年の頃には,夜盗・強盗・山賊・海賊の類を
夷島(えぞがしま)に流罪にした記事がみえる。また,日蓮の高弟日持(にちじ)が函館にきて,数年後大陸に渡ったという伝説もある。
鎌倉末・南北朝内乱の頃から,奥州の戦争で敗れて蝦夷地に亡命土着した人の数はかなりに上った
と思われる。14世紀中期の「諏訪大明神絵詞」に,蝦夷地に渡党(わたりとう)・日の本(ひ もと)・唐子(からこ)の3グループがいると書かれ,日の本は北海道アイヌ,唐子は樺太アイヌ,渡党は本州から
渡ったものと解する人もいる。

一方,中国の史書には,1264年,クイ族とギレミ族が対立,紛争を起こし,元軍が出兵したと記録している。
このクイ族はアイヌ民族の中国側呼称といわれ,その後アイヌ民族は中国大陸に進出,元軍に勝利したが,1308年にいたって敗退したらしい。
和人流入の増大は,やがて先住民アイヌの生活を脅かす。和人側の経済的優越感や詐欺的行為も
多かっただろう。両者の衝突は,1457(長禄元)年のコシャマインの戦いとなった。
このとき和人全減の危機を救ったのは,上ノ国花沢館(はなぎわたて)の客将武田信広であった。
信広は若狭(わかさ)(福井県)の人と伝えられる。アイヌと和人の戦いはその後も続くが,
信広の子孫蠣崎(かぎさき)氏は武略・謀略で勝利をおさめ,大館(松前町)に移り,ほかの館主を
配下にして安東氏の代官になった。
アイヌに攻略されたと思われる志濃里(しのり)館跡付近から,越前古窯の大萱3個に入った38万枚に
及ぶ古銭が発見されたが,これは蝦夷地商業の発展と小豪族が深くかかわり,日本海海運の流れのなかに,蝦夷地が組み込まれていく過程を示すものといえよう

松前藩

蠣崎氏は5代慶広のとき豊臣秀吉に蝦夷島主と認められ,安東氏から独立した。
まもなく姓を松前と改め,1604(慶長9)年1月,徳川家康の制書により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれた。
しかし松前藩は他藩と違って農業生産がなく,無高大名で,初めは賓客待遇,まもなく交代寄合,
将軍吉宗のとき万石格に列せられた。
松前藩のいま一つの特色は,藩域に和人と異なる先住民族アイヌが存在することであった。

アイヌ支配の方法として,藩は松前城下東西25里(100km)を和人地と決め,和人の居住をその範囲内としたが,農業生産のない松前藩の経済的基盤はアイヌ=蝦夷交易独占権にあった。
和人地(松前地)以遠は東・西蝦夷地と称したが,藩はそこにいくつかの商場(あきないば)(場所)を設定,それを藩直領ないし上級家臣の知行地とした。
中・下級武士は他藩同様蔵米取である。知行主は船を仕立ててアイヌが必要な品物を積んで商場に行き,そこでアイヌの生産物,おもに海産物と交換して松前に戻り,諸国の商人に売って利益を得た。
武士は同時に商人で,ニシン漁のときには松前前浜に手伝いにも出た。やがて砂金掘り,
鷹匠らの蝦夷地侵入が始まり,時代によって砂金・鷹・木材が有力な財源になったこともある。

アイヌ民族内部もいくつかの勢力圏ができる。そして勢力圏の狩猟圏争いに端を発し,
1669(寛文9)年アイヌモシリから松前藩を追い払え,というシャクシャインの檄(げき)で,
奥地を除くほぼ全島のアイヌの戟いが勃発,東は幌別(ほろべつ)一白糠(しらぬか)間,
西は歌棄(うたすつ)一祝津(しゅくつ)問および増毛(ましけ)で19隻の交易船が襲撃され273人の和人が殺された。幕府は松前藩ばかりでなく東北諸藩にも出兵を命じ,アイヌ軍は敗退,松前藩に絶対服従の誓詞を提出した。この戟争はアイヌ民族の命運をかけた悲劇的戦いだったが,その結果はアイヌの和人への隷属化の道を決定づけたものであった。

江戸中期以降,松前藩経済は,商人が一定の運上金を納めて知行主の交易を請け負う場所請負制へ
移行していった。交易はしだいに請負人による漁場経営にかわり,アイヌは漁場の半奴隷的な労働力
として使役されるようになった。その収奪強化のため,シャクシャィンの戦いから120年後の
1789(寛政元)年・国後・目梨の戦いが起きて松前藩は出兵したが,近辺のアイヌ首長らの説得により戦闘には至らず,和人死者72人,アイヌ処刑者37人で終わった。最近この戦いの意義が考え直されている。      
この戦いに先立ち,「一起し千両」を誇った和人地の江差や福山(松前)がニシン不漁となり,
追?(おいにしん)と称して奥地へ,蝦夷地へと出漁場がひろがっていった。
他方,幕命により長崎俵物として中国輸出用のイリコ・千アワビ・コンプなどの出荷が始まり,
続いて九十九里浜の干鰯(ほしか)こかわる?搾粕(にしんしめかす)類の肥料としての重要性が
認められていった。

1718(享保3)年に亡くなった儒者並河天民(なみかわてんみん)の『憫彊録』(かいきようろく)は,
蝦夷地開拓論の最初といわれるが,その後数十年・ロシアのカムチャッカ半島から千島方面への進出と,その他の外国船の蝦夷島近海への出没を踏まえて,工藤平助が上善した『赤蝦夷風説考』は,
幕閣に大きな影響を与えた。
老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による大規模な蝦夷地調査が行われたが,田沼の失脚によって
積極的な交易は中絶した。
しかし,この調査でロシアの南下政策の強力さを知らされた。このような状勢のなかで,国後・目梨の戦いが起きた。これは和人に対するアイヌの最後の組織的な抵抗であった。
まもなくロシア使節ラックスマンの根室来航,イギリス船プロビデンス号の室蘭来航と,
北辺の風雲は緊張の度を急速に深めていく。

幕府直轄
箱館開港

鎖国幕藩体制にとって,国境蝦夷地は重要な土地である。
これは1万石格の松前藩に任せてはおけない。幕府は1798(寛政10)年蝦夷地再調査のうえ,
翌年仮に東蝦夷地を直轄し・松前一根室間の道路を整備し,択捉航路を開き,伊能忠敬(いのうただたか)の東蝦夷地海岸測量(のち間宮林蔵が西海岸を測量),八王子千人同心子弟の屯田入植,場所請負の廃止と直捌(じきさばき)実施,有珠(うす)・様似(さまに)・厚岸(あつけし)に官寺を創建するなどの対策を講じた。
ロシア使節レザノフが長崎に来航したのは1804(文化元)年であるが,幕府に国交を拒絶され,
憤激のあまり部下に樺太・利尻(りしり)・択捉で暴行略奪を行わせた。
報をうけた幕府は,1807年松前藩を奥州梁川(やながわ)に移封して全島を直轄,北奥諸藩に蝦夷地を警備させた。間宮林蔵の樺太探検・間宮海峡の発見はその2年後である。

1811年この事情を知らず千島列島を測量南下したロシア軍艦デイアナ号の艦長ゴローニン中佐は,
国後(くなしり)島に上陸,警備の日本側に抑留された。
ディアナ号は翌年艦長救出に来航,択捉島近海で高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえたが,
高田屋の尽力で問題は無事解決し,日露間の緊張は緩和された。
1821(文政4)年幕府ほ蝦夷地を松前藩に返したが,内外の平穏ほ長くほ続かなかった。
内には北前船ともよばれる弁財船の往来が盛んになり,天保年間(1830〜44)になると場所請負人の
大網使用が盛んになり,小漁民たちとの対立が出現した。
他方,国籍不明の外国船が厚岸場所・有珠場所などに来航,警備の藩兵と交戦し,
津軽海峡にも外国船が出没し・幕府ほ松前藩に新たに城を築かせた。

1854(嘉永7)年日本は開国し,箱館は伊豆の下田とともに開港場になり,幕府は道南の一部を除く
蝦夷地の大部分を再び直轄し,箱館奉行をおいた。
このとき日露間の条約で,千島方面の国境は択捉島とウルップ島との間に一致決定したが,
樺太方面でほ決まらず,のちの課題として残されたのである。

開港によって箱館は大きく変化した。西洋人の渡来,諸術調所(洋学校),弁天岬台場,
五稜郭(ごりようかく)築城,洋式造船,キリスト教会,警備地のストーブ・コーヒーなど,
後進地蝦夷地の一角はにわかに近代文明済入の門となったのである。
農業開拓も積極的に進められ,水稲の試作も成功した。なお,蝦夷地は奥羽6大藩に分領・警備させた。

開拓使

明治維新に際して,維新政府は箱館裁判所(のち箱館府)を設置,箱館奉行から蝦夷地の引き継ぎをうけ五稜郭を役所に5月から新政が実施された。この新政はわずか半年,10月に榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕軍が来島して府知事・松前藩主は青森へ逃れるはめになった。
しかし翌春の政府軍の攻撃に衆寡(しゆうか)敵せず,5月に五稜郭は開城して箱館戦争は終わった。

この1869(明治2)年7月開拓使が設置され,8月蝦夷地を北海道と改め,11ヵ国86郡をおき,
開拓使直轄地・館藩(松前藩)のほか東京府・兵部省・諸藩・士族・寺院に一時分領された。
同年9月東久世通繕(ひがしくぜみちとみ)長官以下開拓使官僚は函館(箱館を改名)出張所に赴任した。
判官島義勇(しまよしたけ)はただちに札幌本府の建設に着手,開拓使はまた場所請負制度の廃止を命じたが,請負人の反対で数年間妥協を余儀なくされた。
1870年,函館とともに,東京に出張所,次いで札幌開拓使庁が本拠となる。
そして,黒田清隆が樺太専任の次官となり,一時,樺太開拓使が分置されるが,1年半で併合され,
東久世退任後長官を欠き,黒田は1874年長官となり,東京出張所にあって実権を握った。
この間廃藩置県で分領支配は廃止となるが,旧館藩領は館県を経て弘前(ひろさき)県一青森県管轄,
1年後閑柘便に移管,開拓使の一円支配は完成する。しかしこのとき開拓使の高額な納税問題から
いわゆる福山・江差(えさし)騒動が起こり,弘前鎮台から出兵して漁民を鎮圧した。
なお,未解決だった日露国境問題は,1875(明治8)年千島樺太交換条約の締結で,千島全島は日本領に,樺太全島はロシア領に確定した。

北海道開拓は,明治政府の殖産興業の一環と考えられている。黒田清隆は当初から樺太維持は至難と判断,北海道経営を主とし,そのために西洋技術採用を建議した。
外人顧問の招へい,留学生の派遣,国内に学校を設けて外人教師の指導をうけるという3方法がとられた。具体的にはアメリカの農務局長ケプロンら顧問の招へい,山川健次郎や津田梅子らの留学,
アメリカのマサチューセッツ農科大学長クラークによる札幌農学校の創設である。
札幌農学校から佐藤昌介(しょうすけ)・新渡戸稲造・内村鑑三らの人材が輩出したこと,
クラークの残した「ボーイズ ビィ アンビシャス」のことばは有名である。

開拓使は39の各種官営工場の設立,幌内炭山の開発,その石炭輸送のため幌内一小棒間の鉄道を敷設した。当時としてはかなり思い切った施策である。また稲作・米食を否定し,西洋式農業の移入もはかった。原野・原始林の開拓は,本州のような小規模農業技術ではむずかしくしかも寒冷地である。
開拓使は同緯度の欧米農業の適地適作と家畜・器械力に期待をかけた。
そして輸出むけ産業を奨励した。しかし洋風近代技術がどこまで北海道に定着したかには問題が残っている。

江戸時代の移民政策の難点は,農民が土地にしばられていたことにある。
明治の地租改正をめぐる農民の自由解放は,自由な北海道移住の道を開いた。
それが具体化するのは明治20年代になるが,農民解放より前に,戊辰戦争や廃藩置県による武士団の
解体課程から多くの北海道移民が生じた。伊達士族(伊達市・登別市・当別町・札幌市白石など),会津士族(余市),稲田士族(静内)などに続いて屯田兵,前田・毛利・尾張徳川の士族授産,開進社などの会社組織,不況の3県時代の移住士族取扱規則による移住があげられる。
屯田兵はのちに平民屯田に移行するが,24年間に7336戸が各地に入植,開拓に従事し,農耕地を拡大していった。

1881(明治14)年の開拓使官有物払下事件は政変を引き起こし,翌年早々開拓使廃止,札幌・函館・根室の3県に分割され,1883年農商務省北海道事業管理局が設けられ,いわゆる3県1局の分治行政になった。この時期4年間は開拓成績不振の時代といわれる。伊藤博文の命をうけた金子堅太郎は全道くまなく調査し,開拓進展のために強力な殖民局設置案を復命し,その内容は北海道庁初期の施政に大きな影響を与えた。3県1局はかくして廃止される。

北海道庁

1886(明治19)年北海道庁新設,岩村通俊が長官になった。
初期道政の特色は,「人民ノ移住ヲ求メズシテ,資本ノ移住ヲ」求めようとし,移民の保護は資本家にゆだね,
道庁は道路・港湾・殖民地選定区画などの基礎整備をしようとした。       
この方向で,上川一北見道路開削や幌内炭山・跡佐登硫黄山(あとさぬぶりいあう)などに,
樺戸(かばと)・空知(そらち)・釧路集治監の囚人労働力が酷薄無惨(こくはくむざん)に消耗された。
幌内炭山と鉄道は華族・官僚・政商の創立による北海道炭墳鉄道会社へ,その他の官営工場も三井など政商に払い下げられた。
皇室御料地は全道に200万haを設定,華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられた。
1897年制定の北海道国有未開地処分法は100万ha以上の大地積の無償払下げを決め,
北海道の不在巨大地主制を決定づけた。
1896年に65%あった自作農は1907年には半数以下に大きく減少し,1925(大正14)年には30%台になった。1920年,50ha以上の地主1058のうち不在地主567(道外189),1000ha以上の巨大地主15のうち
不在地主9(道外6)を数えた。
1924年の農務局調査で全国大地主の25%,農会調査では52%を北海道が占めている。

日清戦争頃から林業資本家が進出し始め,農家の冬季労働力を利用した。
産業別生産額では,水産業を超えて1900(明治33)年農業が首位に立ち,日露戦争前後,
大資本による製鉄・製鋼・製紙工業が出現した。
大正後半には工業生産額が農産額を超え,鉱業にも大資本が進出し石炭が大部分を占めた。
農業は明治末に畜耕手刈が一般化するが,地力減耗で転換を迫られ,漁業は明治末以来ニシンの減少,続く中国での日貨排斥はコンプにも影響した。北洋漁業への道と漁船動力化も始まるが,昭和初期に書かれた小林多喜二の『蟹工船』『不在地主』は,当時の事件を素材にしたものである。
開拓使以来,北海道はいつも他府県とは違った制度で歩んでいる。
徴兵令も長く施行されず,国会への参政権や北海道会の設置も認められなかった。
1899(明治32)年から,北海道特有の区制,一・二級町村制(戸長役場も併存)は実施されるが,
他府県より自治権限は著しく弱かった。
教育も開拓地では簡易化され,アイヌだけの旧土人学校もつくられた。地方自治が他府県同様になるのは第2次世界大戦後である。

1901(明治34)年から10年計画・第一期拓殖計画・第二期拓殖計画が続いて実施され,
しだいに基礎施設・土木事業中心から産業施設へと重点が移ってきた。
しかし,大正なかばから移民は減少して反対に北海道を離れる者が増加し,日露戦争後南樺太への移住が目立つようになった。当時の人口食糧問題を背景に,人口600万人・牛馬100万頭・158万ha墾成を目標に掲げて1927(昭和2)年発足した第二期拓殖計画は,前半は恐慌と冷害凶作の連続,後半は破滅的戦争にまきこまれて空中分解したといってもよい。
ただ冷害のなかから北方農業が提唱され,恐慌と戦争のなかで経済更生運動や隣組を通じて,
移住者の寄合い世帯にすぎなかった町村が,それぞれ生活圏としてまとまり始めたといえるかもしれない。他方,戦時の労働力不足時代,朝鮮の人々,中国人捕虜の多数が強制連行され,
道内の炭鉱やダムその他の土木工事に酷使されたが,これらの無法はまだ尾をひいている。
なお,戦争末期,函館・室蘭・根室・釧路・本別などアメリカ軍の空襲や艦砲射撃をうけた地域は多く,
千島と南樺太はソ連軍に上陸されて戦場になり,占領された。

現代

敗戦の結果千島・南樺太の領土を失い,多くの邦人が北海道に引き揚げてきた。
満州(中国東北部)その他からも引揚げは続き,敗戦時350万人の人口は5年で80万人増加し,
食糧欠乏,インフレなどで混乱がしばらく続いた。
戦後の改革で寄生地主は姿を消し,また地方自治制度は府県並みになり,初代民選知事に社会党員が当選した。
炭労・全逓(ぜんてい)・教組など労働運動の主役も北海道から輩出,一時「革新王国」といわれた。
植民地を失った日本にとって,北海道はホープ,とりわけ食糧基地・石炭の宝庫と喧伝され,
現在まで6期にわたる総合開発計画が進められているが,果たしてホープだったか,ホープたりえたか。

高度経済成長の昭和30年代,産業構造も人の流れもかわった。かつての重点産業石炭は,
エネルギー革命で石油にとってかわられ,多くの炭鉱は閉山していった。
石炭に支えられてきた夕張・赤平・歌志内・芦別などの町は基幹産業を失い過疎化が進み,
活気に満ていた立坑周辺はゴーストタウンとなってしまった。
農業もほほ全面的に機械化され,品種改良・土地改良・大型圃場整備など・北方農業の技術的進歩は
目覚しいが農作物の輸入・米あまり現象の影響をうけ,米作減反は北海道に最も厳しく,
農耕馬は姿を消して競走馬がのびている。
また,寒地農業の花形ともてはやされた大規模酪農経営も安定せず,農村から都会に流出する若者が減らず,後継者不足に悩みつつ休耕・転作そして荒廃する農地が増えていった。
水揚げ日本一を誇る漁業は,沿岸漁の不振から北洋に活路を求めてきたが,
諸外国との協定にしばられて減船に減船を重ねて危機に立つ。

こうしたなかで苫小牧工業港・釧路西港・石狩湾(いしかりわん)新港・青函トンネル・新千歳空港が開港した。反面,国鉄の解体と多くの赤字線廃止は,北海道の足を混乱させ,バブル経済の崩壊ほ北海道拓殖銀行を廃業に追いこみ,地場産業を萎縮させずにおかなかった。
北方領土問題の解決を願いつつ,全道各地でそれぞれの特色を育てる努力を続け,観光資源のみなおし,土地柄のにじむ特産品の育成,交通ハイテク網の整備などを進めているが,自然保護・環境保全との調和,過疎化・高齢化のなかで生産福祉基盤をいかに確立すべきか,多くの課題がある。

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